鈴木雄介選手凱旋!
「走っている時よりも、速く感じる」
こう語るのは富士通陸上部に所属し、競歩選手として活躍する鈴木雄介(24歳)だ。100メートルを“歩く”スピードは、調子がいい時には17秒を切るという。ただし、鈴木が専門とするのは20キロ競歩のため、レースでは100メートルを24秒前後、1キロ4分ペースで歩く。 「レースの時は、もうグイグイ進んでいる感じです。自分の体をすごく速く動かせていると実感できるところが、この競技の一番の魅力だと思います」 出身は競歩が盛んな石川県能美市。同市では毎年「全日本競歩能美大会」が行われ、県内からは五輪選手も複数出ている。お兄ちゃんの影響で地元の空手教室に入門した。また鈴木が小学校3年になった頃、2つ年上の兄が地元の陸上クラブに入った。これがきっかけで弟の鈴木も同クラブで陸上競技を始めた。 「グッ」と踏んで、「フッ」と進む そんな鈴木が“ウォーカー”になったのは、中学で陸上部に入ってからだ。入部して最初の地区大会で、新入生は皆、専門の種目に出ることができなかった。そのため、強制的に出場させられたのが競歩だった。もちろん、全員が全くの初心者だったが、鈴木はその中でも速いほうだったという。それをきっかけにしてその後も、いくつか県内の大会に競歩で出場した。しかし、当時はまだ競歩に熱中していたわけではなく、「練習はせずに、ただ大会に出場していただけ」だった。 転機が訪れたのは、中学2年の地区大会で、長距離と競歩の2種目に出場した時だ。大会の結果、県大会という次のステップに進めたのは、メインとしていた長距離ではなく、競歩の方だった。 その後、トラックの3000メートルと5000メートル、そしてロードの3キロの3種目で中学新記録を樹立し、鈴木の名はあっという間に全国区となった。そして、この頃から彼の中には「競歩で世界一になりたい」という思いが芽生えていた。 高校に入学して間もなく、鈴木にある出会いが訪れる。陸連が強化事業の一環でイタリアから競歩を専門に教えるコーチを招聘し、研修会を開催。鈴木はそれに参加したのだ。そして、このイタリア人コーチから、初めて競歩の専門的なテクニックや理論を教わったという。 好敵手出現の喜び http://www.ninomiyasports.com/sc/img/120531suzuki2.jpg 競歩選手として大きくレベルアップするきっかけを掴んだ高校時代に、鈴木はある人物と出会った。現在、富士通陸上部で同僚の森岡紘一朗である。高校1年時のインターハイ、5000メートル競歩で対戦し、鈴木は森岡に敗れて3位でゴールした(森岡はレース後に失格を宣告され、結果的には鈴木が繰り上げ2位)。この時のレースを鈴木はこう振り返る。 その後、鈴木は高校2年の時に世界ジュニア陸上に出場した。前半からペースを上げ、後半もそのペースを維持しながら粘るというのが彼のレーススタイルだ。しかし、同大会では前半からペースを上げることができず、ついていくことができなかった。挙句の果てには先頭集団に1周差をつけられる始末だった。最下位は逃れたものの、「僕たち下位の選手だけ違うレースに出場しているような感覚に陥りました」と語るほど、世界の強豪との圧倒的な差を感じた。 順大進学後は、森岡やチームメートと切磋琢磨する一方で、指導者に恵まれたことも大きかった。コーチの今村は、五輪はバルセロナ、シドニーの2大会、世界陸上には7回出場した日本競歩界の第一人者だ。鈴木はこの偉大な先輩に指導を受けたことで「練習に対しての意識がだいぶ変わった」という。いったいどのような変化が表れたというのだろうか。 実際、心拍数などを意識することで、歩くペースに対して乳酸の数値が低くなっていったという。こうして練習の意味を明確に知ることで、効果が2乗にも3乗にもなって体に表れることを感じたのだ。 ロンドンへ行くために 森岡が大学に入って大きく飛躍したように、鈴木もまた大学1年時に出場した世界ジュニア1万メートル競歩で3位に入るなど、確実に世界と戦える力をつけていった。07年のユニバーシアード(バンコク)には森岡とともに20キロ競歩で出場し、銅メダルの森岡に次ぐ4位入賞でレースを終えた。この時鈴木は「次の大会は絶対にメダルを獲る」と決意したのである。 さらに09年は世界陸上ベルリン大会の日本代表にも選ばれたが、レース中に脱水症状に陥り、結果は42位と惨敗。 世界での戦いに苦しむ中、鈴木は10年春に大学を卒業し、今村がコーチを務め、森岡も所属する富士通へ入社した。富士通は彼にとって、レベルの高い練習相手がいて、競技に集中できる最高の環境だった。そこでロンドン五輪に向け、さらなるレベルアップを図っていきたいと考えていた。だが、順風満帆にはいかなかった。社会人1年目、鈴木は日本選手権3位、アジア大会(広州)は5位とともに優勝を狙った大会で思うような結果を残すことができなかった。 しかし、アジア大会後、鈴木は気持ちを切り替え、日本選手権に向けて、さらに練習に励んだ。自分に足りない部分を考え、それを高める練習も取り入れたいとコーチの今村に進言するようにもなった。彼の視線の先にあったのは1年後に迫ったロンドン五輪だった。陸上においては、五輪の前年の世界陸上で結果を残すことが代表内定への近道となる。そして、その世界陸上へ出場するためには、日本選手権で結果を残さなければならなかったのだ。 高校時代は好敵手して、大学からは仲間として鈴木を見てきた森岡は語る。 まずは最初の難関である11年2月の日本選手権で、鈴木は20キロ競歩で初優勝を手にした。自身のスタイルを存分に発揮した結果だった。序盤から飛ばし、途中の10キロまでは、日本記録を上回るペースでレースを展開した鈴木は、森岡ら他の有力選手を引き離すことに成功し、トップでゴールテープを切ったのだ。この結果、鈴木は同年に行われる世界陸上テグ大会の代表に内定した。そして、日本選手権からおよそ半年後、当時23歳のウォーカーの名が世界の競歩界に轟くこととなる――。 (後編につづく) http://www.ninomiyasports.com/sc/img/120531suzuki3.jpg<鈴木雄介(すずき・ゆうすけ)プロフィール> |
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